光ケージ分子の光分解を電子スピンで高効率化 ―光応答材料・ドラッグデリバリー技術への新たな設計指針―
東京大学
広島大学
発表のポイント
- 光分解性保護基(光で外れる「分子のふた」=光ケージ)であるNPIM誘導体について、励起状態の寿命と電子スピンの性質を利用した「量子スピン操作」により、効率よく活性成分を放出する反応機構を解明しました。
- 光照射によりNPIM分子が一重項励起状態に遷移し、寿命の長い三重項励起状態に移ることで、その後生じる二つのラジカルが、スピンの規則により元の一重項分子に戻る再結合を抑制します。従来とは異なり、切断後の「戻り反応」までスピンで抑えることが分子設計の要点です。
- 光ケージは、試薬を追加せず、光を当てた位置と時刻で分子機能を開始できるため、細胞機能の解析、神経科学、精密な有機合成、材料加工などで利用されています。本研究で実証した量子スピン操作を設計指針として確立できれば、少ない光量で高い放出効率を得る分子や、再結合による損失の少ない光応答材料の開発、生体内のドラッグデリバリーにつながる可能性があります。

概要
広島大学大学院先進理工系科学研究科の安倍学教授と東京大学物性研究所の吉信淳教授らによる研究グループは、光分解性保護基である2-(4-nitrophenyl)-1H-indole-3-ylmethyl (NPIM)誘導体の励起状態の寿命と電子スピンの性質を利用した「量子スピン操作」により、効率よく活性成分を放出する反応機構を解明しました。様々な分光測定と理論計算を組み合わせた解析により、光照射から5ピコ秒でねじれた状態を形成し、NPIM分子が三重項励起状態(注1)へ移り、そこから結合を均等に切る「ホモリシス(注2)」が起こることを明らかにしました。また、生じる二つのラジカルは三重項の組として生成するため、元の一重項基底状態(注3)の分子へ戻る再結合がスピン選択則(注4)で起こりにくくなり、高い放出効率につながることを示しました。
本成果は、電子スピンを利用して「戻り反応」まで制御するという新たな分子設計指針を示すものであり、少ない光量で高効率に機能する光ケージ分子や光応答材料の開発、生体内で薬剤を精緻に放出するドラッグデリバリーなどに役立つことが期待されます。
本成果は、国際学術誌である Journal of the American Chemical Society に8月28日付け(米国東部夏時間)で掲載されました。
全文PDF研究の背景
光分解性保護基(光で外れる「分子のふた」=光ケージ)は、薬剤や生体分子などの働きを一時的に封じ、狙った場所・時刻で光を当てると活性成分を放出する分子技術です。試薬を追加することなく、光によって分子機能を時空間的に精密制御できることから、細胞機能解析、神経科学、有機合成、材料加工など幅広い分野で利用されています。
一方、光ケージ分子では、活性成分を効率よく放出する光ケージを設計するためには、結合切断後(分子のふたを開けた後)に生成するラジカルの反応を理解することが課題となっていました。
研究内容
本研究では、NPIM誘導体の励起状態と解離過程を様々な実験手法と理論計算で明らかにしました(図1)。
本研究では、光を吸収したNPIM分子がインドール部位(ドナー)からニトロフェニル部位(アクセプター)への電荷移動(注7)を起こし、約5ピコ秒で両部位がねじれた電荷移動状態を形成することを確認しました。このねじれによって一重項励起状態(注3)と三重項励起状態のエネルギー差が小さくなり、約1ナノ秒で三重項励起状態へ移ることが、東京大学物性研究所で開発された超高速赤外振動分光により明らかになりました。
さらに、寿命の長い三重項励起状態から結合が均等に切れる「ホモリシス」が進行し、三重項のスピン状態を保ったラジカル対が生成されるため、スピン選択則によって元の一重項分子への再結合が起こりにくくなることを実証しました。従来のように結合切断を促進するだけでなく、切断後の戻り反応までスピンで制御することが、高効率な光反応を実現する鍵であることを示しました。加えて、極性溶媒では結合切断効率が著しく低下することを実験と理論計算の両面から明らかにし、三重項反芳香族性(注8)の解消が反応の駆動力となることも示しました。
新たに発見したことをまとめると、以下のようになります。
- 三重項が主な反応場:酸素で三重項を消去すると、分解速度は空気中で約70%、酸素雰囲気で約88%低下し、結合切断が主に三重項励起状態から進むことが分かりました。
- 反応を時間軸で直接追跡:様々な分光法で、一重項励起状態(寿命1.6 ns)、三重項励起状態(2.3 μs)、NPIMラジカル中間体(1.5 ms)を順に観測しました。
- 生成物から切断様式を確認:その場赤外分光で、安息香酸、酸化されたNPIM生成物、ベンゾイルラジカル由来のCO2を直接検出し、ラジカルを生じるホモリシス機構を支持しました。
- ねじれがスピン変換を促進:一重項励起状態−三重項励起状態のエネルギー差は5.3 kcal/molと小さく、ねじれた電荷移動状態がこの差を縮めて項間交差を促すことを示しました。東京大学物性研究所で開発された超高速赤外振動分光により、ねじれた電荷移動状態が関わるダイナミクスがサブピコ秒からナノ秒にわたり解明されました(図2)。
- 溶媒効果と駆動力を定量化:三重項励起状態からの結合切断効率は四塩化炭素0.82、ベンゼン0.56に対し、アセトニトリルでは0.012でした。計算から、極性溶媒では障壁が上がること、三重項反芳香族性の解消が切断を後押しすることが示されました。
本成果の意義・今後の展望
本研究は、光ケージ分子の反応効率を制御する要因として、電子スピンを利用した「量子スピン操作」が重要な役割を果たすことを実証したものです。これにより、結合切断だけでなく、その後の再結合反応まで制御するという新たな分子設計指針が示されました。
この成果は、少ない光量でも高い放出効率を実現する光ケージ分子や、再結合による損失の少ない光応答材料の開発につながると期待されます。また、生体内で薬剤を必要な場所・タイミングに放出するドラッグデリバリー技術や、高精度な光制御技術の高度化にも貢献することが期待されます。今回の機構検証は主に355〜400 nmの光と有機溶媒中で行われました。また、酸素存在下では反応速度が低下し、極性溶媒では結合切断効率が大きく下がるため、水中・生体環境に適した分子設計が今後の課題です。
発表者・研究者等情報
- 広島大学 大学院先進理工系科学研究科
- 安倍 学 教授
- 東京大学 物性研究所
- 黒石 健太 特任研究員
- 吉信 淳 教授
- 松永 隆佑 准教授
論文情報
- 雑誌名:Journal of the American Chemical Society(オンライン)
- 題 名:Mechanistic Insights into Photo-Induced Bond Dissociation of A 2-(4-Nitrophenyl)-1H-indole-3-ylmethyl (NPIM) Derivative: A Case Study on Quantum Spin-Manipulation for Photo-uncaging
- 著者名:Kenta Kuroishi*, Ryuei Hayashi, Ryoko Oyama, Shunsuke Tanaka, Kotaro Ogawa, Yuta Murotani, Ryusuke Matsunaga, Jun Yoshinobu*, and Manabu Abe*(*責任著者)
- DOI: 10.1021/jacs.6c13942
研究助成
本研究は、科学研究費補助金(20H00343、22K19033、26H00891)およびJST-CREST(JPMJCR18R4、JPMJCR20R4)の助成を受けて実施されました。
用語解説
- (注1)三重項励起状態
- 分子の電子状態のうち、全スピン量子数が(S=1)となり、スピン多重度(2S+1)が3となる状態を三重項状態といいます。典型的な最低エネルギーの三重項励起状態(T1)では、HOMOとLUMOに電子が一つずつ入っており、2つの電子のスピンの向きが同じであることが特徴です。一重項励起状態と比べて、電子基底状態への緩和が起こりにくく、光分解反応が進行しやすくなります。
- (注2)ホモリシス
- 分子の結合の切れ方の一つ。結合を担っている共有電子対の電子2個が1つずつ分かれて2つのラジカルが生じる反応をホモリシスと呼びます。一方で共有電子対の電子2個が片方に移動してイオンペアを生成する反応をヘテロリシスと呼びます。
- (注3)一重項基底状態、一重項励起状態
- 分子の電子状態のうち、全スピン量子数が(S=0)となり、スピン多重度(2S+1)が1となる状態を一重項状態といいます。ほとんどの有機分子の電子基底状態は一重項状態であり、光を吸収することで一重項励起状態へと遷移します。典型的な最低エネルギーの一重項励起状態(S1)では、HOMOとLUMOに電子が一つずつ入っており、2つの電子のスピンの向きが逆向きであることが特徴です。一重項励起状態は、下に示すスピン選択則によって、その励起エネルギーが比較的速やかに光や熱に変換され、電子基底状態へと緩和します。
- (注4)スピン選択則
- スピン多重度が異なる電子状態間の遷移は禁制である、という量子力学的な制約。S1状態から基底状態への遷移はスピン多重度が変化しないため許容遷移である一方で、T1状態から基底状態への遷移はスピン多重度の変化を伴うため禁制遷移となります。その結果T1状態は長い時間その励起状態を保つことができ、光分解反応が進行することができます。
- (注5)HOMO
- 電子基底状態で電子が占有されている一電子軌道のうち、エネルギーが最も高い分子軌道です。
- (注6)LUMO
- 電子基底状態で電子が占有されていない一電子軌道のうち、エネルギーが最も低い分子軌道です。
- (注7)電荷移動
- 基底状態から励起状態に遷移する際、電子の位置が大きく変化するようなものを電荷移動遷移と呼びます。本研究で用いたNPIMはHOMOとLUMOの分布が大きく異なっているため、S1やT1状態は電荷移動特性を持っています。
- (注8)三重項反芳香族性
- 平面状の環状分子の電子基底状態では、環に沿って広がるπ電子の数が4n+2個のとき、電子が環全体に広がることで分子が安定化し、この性質を芳香族性と呼びます。一方、π電子の数が4n個の場合には、逆に分子が不安定化し、この性質を反芳香族性と呼びます。三重項励起状態ではこの関係性が逆転し、4n個のπ電子を持つときに芳香族性を、4n+2個のπ電子を持つときに反芳香族性を示すことがあります。後者を三重項反芳香族性と呼びます。


