蜂の巣をひねって実現した新しい量子状態 ―キタエフ模型を拡張した量子コンパス模型の実現―
東京大学物性研究所の大熊隆太郎助教とオックスフォード大学クラレンドン研究所のRadu Coldea教授らによる研究グループは強いスピン軌道相互作用(注1)を持つ希土類酸化物において、二次元的なハニカム格子をひねることで三次元的なハイパーハニカム格子を作り出し、極端に傾いた磁気構造が生じることを明らかにしました。この特殊な磁気構造はスピンの向きやすさが空間的に変化する相互作用が原因になっており、量子コンパス模型と呼ばれる新しい量子模型が実現していることがわかりました。今後二次元的な格子をひねる操作と空間的に変化する異方性を組み合わせることで新しい量子状態が発見されることが期待されます。本成果は、英国科学誌「Nature Communications」に2024年12月6日(現地時間)に掲載されました。
正六角形を敷き詰めた模様はハニカム格子と呼ばれ、蜂の巣や泡、ダンボールなどさまざまな場面で現れます。ハニカム格子は平面を効率よく埋め尽くすパターンですが、ジグザグ構造を切り離してひねることで三次元を埋め尽くす新しいパターンを作ることができます(図1)。この特殊なパターンはハイパーハニカム格子と呼ばれ、ハニカム格子と同様に頂点から出る辺の数が3つという特徴を持っています。自然界や物質中でも頻繁に現れるハニカム格子とは異なり、ハイパーハニカム格子は非常に珍しい構造であり、いくつかの興味深い性質について予想されていたものの、実際の物質において実現する方法はほとんど知られていませんでした。
本研究ではハイパーハニカム格子が持つ性質を調べるためNa2PrO3という化学式を持つ物質に着目しました。この物質はスピン軌道相互作用の強い磁性イオンのプラセオジムがハニカム格子とハイパーハニカム格子のネットワークを組む2種類の構造(それぞれα、β相、図2参照)が知られています。これらの構造においてプラセオジムが作る”蜂の巣”の隙間には蜂蜜の代わりにナトリウムが収容されています。先行研究において酸素中で合成を行うとα相が生じることがわかっていましたがβ相を再現性よく作る方法は知られていませんでした。本研究で詳細に合成条件を調べた結果、真空中でナトリウムとプラセオジムの配置が乱れた立方晶の物質を作っておき、加熱することでβ相を簡単に作ることができることがわかりました(図2)。Na2PrO3の合成に関する研究成果は今年8月にInorganic Chemistry誌[1]で発表されました。
この興味深い構造を持つβ-Na2PrO3を初めて系統的に合成することが可能になったため中性子散乱(注2)を用いてプラセオジムの磁石としての性質を詳しく調べました。その結果、プラセオジムのスピンは低温で大きな角度を持って空間的に配列することがわかりました(図3左,中央)。通常のスピン軌道相互作用の弱い磁性体ではスピンは平行に向きたがるため、新しいタイプの相互作用が生じていることが期待されます。そこで磁気励起(注3)を観測したところ大きなエネルギーギャップとその上に複雑な構造が観測されました(図3右)。これはスピンがお互いに強く相互作用していてかつ、ある方向にしか向けないようになっていることを意味しています。ただしプラセオジムのスピンは最も量子ゆらぎの強いスピン1/2の角運動量を持つため、スピン自体に向きたい方向はなく隣接するスピンとの相互作用の結果として向きたい方向が決まります。
スピンの向きたい方向がスピン同士の相対的な方向に依存して変化するという状況を表す模型は一般に量子コンパス模型と呼ばれます。最もよく知られたモデルはキタエフ模型です(図4左)。ハニカム格子やハイパーハニカム格子上でのキタエフ模型はスピンの間の相互作用が三つの異なる方向を向きやすくなっており、スピンの方向が定まらないために、量子スピン液体(注4)が実現することが理論的に厳密に示されています。これまでにキタエフ相互作用の実現を目指してスピン軌道相互作用の強い磁性イオンを有するハニカム格子物質が数多く合成されてきました。一方で今回見つかった特殊な磁気構造や磁気励起は通常のキタエフ模型では説明できず、Γ相互作用(注5)というスピンの結合方向に依存する新しいタイプの相互作用を考える必要があります(図4右)。Γ相互作用はハニカム格子上では際立った効果をもたらしませんが、ハイパーハニカム格子では磁気構造におけるスピンの相対角がΓ相互作用の大きさに比例するので簡単に検出することができます。これまでほとんど理論的な研究対象に過ぎなかったハイパーハニカム格子やΓ相互作用が実際の物質で特異な量子模型として結実したことは大変意義があると言えます。また、今回の研究で注目したハイパーハニカム格子の他にも、二次元的なパターンをひねってできる三次元格子はハイパーオクタゴン格子やハイパーカゴメ格子など多数あるため、強いスピン軌道相互作用と二次元と三次元の中間的な性質を持つパターンを組み合わせることでさらなる新しい量子相が発見されることが期待されます。
論文情報
- 雑誌名 : Nature Communications
- 題名 : Compass-model physics on the hyperhoneycomb lattice in the extreme spin-orbit regime
- 著者名 : Ryutaro Okuma*, Kylie MacFarquharson, Roger D. Johnson, David Voneshen, Pascal Manuel and Radu Coldea
- DOI:10.1038/s41467-024-53345-8
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用語解説
- (注1)スピン軌道相互作用 :
- 電子の自転運動に由来したミクロな磁石としての性質であるスピンと、電子が原子核の周りを公転することで生じる軌道角運動量との間の相互作用のこと。スピン間の相互作用に方向依存性をもたらす原因の1つ。
- (注2)中性子散乱 :
- 中性子の波を物質に当てることで物質の構造や磁気的な性質を調べる方法。中性子は電荷を持たずスピンだけを持つため特に磁石としての性質を調べるのに適している。
- (注3)磁気励起 :
- 外部からの刺激によって物質中のスピンが最安定な状態からエネルギーの高い状態に移ること。中性子散乱でスピンを励起させることが可能であり、どのような運動量、エネルギーの励起状態が生じるかを測定することでスピンの間に働く相互作用を調べることができる。
- (注4)量子スピン液体 :
- 通常の磁性体では温度を冷やすことでスピンの向きは空間的に一様なパターンを形成し、固体になぞらえられる。最も安定なスピンの配置が一つに決まらない場合、スピンが低温まで揃わず量子的にもつれあった状態が生じ、量子スピン液体状態と呼ぶ。量子コンピュータへの応用などが期待されている。
- (注5)Γ相互作用 :
- キタエフ模型と垂直な面内方向にスピンを向きやすくする相互作用。ハニカム格子上でΓ相互作用の働く模型の厳密解は知られていないものの、スピンを強く揺らがせる効果を持つため量子スピン液体状態が生じる可能性がある。スピンが任意の方向を向ける通常の相互作用であるハイゼンベルグ相互作用(J)が同時に存在することで量子コンパス模型が生じる。
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- 東京大学物性研究所 岡本研究室