高輝度放射光利用の近未来:スピンを見る 柿崎 明人(物構研)
 電気伝導、磁性、化学反応、結晶成長等の物質の示す様々な性質の起源を原子スケールで理解する上で、物質の価電子帯構造や結合電子軌道などの電子状態に関する知識は原子構造や化学結合とならんで重要である。これまでに物質の電子状態を明らかにする目的で開発された実験技術のなかで、電子をプローブとする電子分光法は、近年もっとも大きく発展した実験技術の一つである。とくに、光電子分光は放射光の利用によってこの4半世紀の間に急速な進展をみせ、角度分解光電子分光、共鳴光電子分光、スピン分解光電子分光、光電子回折などの新しい実験法も開発されて、物質科学の研究の発展に大きな役割を果たしている。これは第2世代の放射光がもたらした成功の一つといっていい。

 なかでも、スピン分解光電子分光は、角度分解光電子分光と電子スピン検出器を組み合わせて光電子の持つ全ての情報を実験的に決めるユニークな方法で、80年代はじめから放射光を利用して盛んに行われるようになった。現在では、磁性体の↑スピン、↓スピンバンドの分離だけでなく、原子・分子、固体を問わず光電子の励起・緩和過程で電子スピンが果たす役割を調べることにも利用されている。従って、電子スピンをみること自体は近未来でも何でもなく現実である。

 スピン分解光電子分光が近年急速に広まった理由の一つは、スピン検出器にある。高エネルギー実験のために開発された電子スピン検出器を強磁性体に応用して電子スピンを解析することは、70年代はじめにスイスやドイツで始まった。しかし、当初100kVを超える高電圧をたまに起きる地絡を恐れずに取り扱うことは、技術的というよりも精神的に容易ではなかったと聞く。その後、小型で取り扱いやすいスピン検出器が開発されたが、電子スピンの検出効率が10−4程度と小さく、通常の光電子スペクトルを得るのと比べて102〜103倍の光強度(時間)を要することから、スピン分解光電子分光は他の光電子分光実験に比べて展開が遅れていた。この事情は日本でも同じである。しかし、アンジュレータなどの高輝度放射光の出現はこの状況を大きくかえた。入射光強度を103程度大きくすることが可能となり、スピン分解光電子スペクトルを得るのに要する時間が大幅に短縮されたからである。少しオーバーにいえば、現在では一昔前の角度分解光電子分光スペクトルをえるのと同じようにスピン分解光電子スペクトルを得ることが出来る。もう一つの理由は、強磁性体の単結晶表面や磁性薄膜が示す表面磁化や磁気異方性、転移温度の低下など、特徴ある磁性の研究にスピン分解光電子分光が使われるようになったためである。真空紫外・軟X線で励起された光電子の物質中での平均自由行程は短く、スピン分解光電子分光が、表面敏感な実験法としてこれらの物質のスピン電子状態を調べるのに用いられるのは当然であったといえるし、アンジュレータを利用出来るようになった時期と放射光を利用して磁性薄膜の研究が盛んになる時期とがうまくタイミングがあったといえるかもしれない。

 さて、近未来はどうなのだろう。スピンを直接みる実験手段として放射光を利用するスピン分解光電子分光がこれまで以上に広く用いられることはまちがいない。最近の国内外のスピン検出器の開発・整備の状況をみれば明らかであろう。高輝度放射光の利用によって高いエネルギー分解能のスピン分解光電子スペクトルを測定できるようになることも確実である。SCIENTAのような光電子エネルギー分析器とより小型化したスピン検出器を組み合わせることは、既にALS、NSLSだけでなく日本でも始まっている。磁性体、ハーフメタルなどのフェルミ面を↑スピン、↓スピンを分けて描くスピン・フェルミオロジーともいえる新しい展開がみられるかもしれない。また、高輝度放射光の利用は、光電子のスピンを利用する様々な新しい分光実験も可能にする。光電子回折実験からは、これまでに研究の対象となりにくかった反強磁性体やエキゾチックな磁性を示す層状化合物の局所的な原子構造と磁気秩序が明らかになるだろうし、スピン偏極した光電子とオージェ電子、軟X線発光を同時計測できれば、光に対する電子系の応答を調べるという意味での固体分光は、電子スピンを実験的に取り扱えることによって俄然おもしろくなるはずである。光電子顕微鏡とスピン検出器を使って、いわゆるナノスケールの物質のスピン電子状態を探ることも近未来の特徴であろう。光子エネルギーと偏光を自由に変えられる高輝度放射光を照射して、物質から放射される光電子のもつ情報に電子スピンを加えることは、磁性薄膜や量子ドットなどを中心にして応用研究が盛んな表面磁性の研究にも大きなインパクトを与えると思われる。

 一方、高輝度放射光を利用してスピンをみる研究の発展には、他の分野の研究者の参加が不可欠である。現在、放射光の利用とは関係なく電子スピンをみている表面科学や薄膜磁性の研究者との相互乗り入れによって、偏極電子を用いたLEED、EELS、STM、SEMなど、スピンをみる新しい方法による研究の発展も期待できるし、高い効率や二次元表示が出来るなどの新しいスピン検出器の開発も可能であろう。いろいろな研究分野の人が高輝度放射光を利用したり、スピン偏極電子分光を行って様々な角度からスピンをみることによって、スピンをみる研究がますます発展するであろうことは容易に想像がつく。近未来では、高輝度放射光を利用してスピンをみることが日常化し、高輝度放射光がそのために重要性を増すことはまちがいない。

 スピンをみようとする多くの研究者が、既成の研究分野を超え高輝度放射光を利用してどんな新しい発見をするのか、想像するだけでも楽しい。ちょうど潮流がぶつかり合うところにプランクトンが育ち、大小の魚が集まるのに似て、多数の研究者が集まり、輝かしい研究成果もえられるだろう。鯨みたいな大きなものがとれるかもしれない。鯨に片足食われてしまうことはあるかもしれないが、一番銛を打つ若者が近未来に大勢いることも期待できそうな気がしてきた。楽観的にすぎるとエイハブ船長に言われるだろうか。


Monday,10,May,1999

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