研究の背景と目的


 有機分子の分子軸を揃えると、反応部位を空間的に制御したり、反応物質をそのまま低次元場に固定することができる。大気圏で起こる酸性雨の発生やオゾン層破壊などの反応も、水滴や氷の微結晶上を反応場として進行する。さらに、宇宙空間での化学進化も氷に覆われた宇宙塵表面上で進行する。このように、分子凝集体表面は新しい化学反応の分野を切り開く鍵となる興味ある系である。本領域研究では、固体表面科学で培われた手法を用いて、分子凝集体表面での様々な化学現象をどこまで解明できるか、その可能性を探る。

 近年の表面科学の進歩は目覚ましく、金属、半導体、イオン性化合物などいわゆるハードマテリアル表面での原子・分子の構造や吸着相の電子状態や振動状態が、実験、理論両側面から厳密に議論できるまで発展してきた。ここでは、規定された固体表面を舞台として、主としてバルク物性との対比という興味から、表面での対称性の低下による状態変化、外界との相互作用などが議論され、表面独特の構造や電子状態の検証など、固体表面科学の一大転機ともいえる研究成果が得られている。科学の進歩の常ではあるが、興味の対象とする系が設定されると、その本質の理解のために必要な情報が抽出され、さらにはその情報を得るための研究手法の開発が進み、それが現象の本質の理解に寄与する。このように、常に The matter of interest と Method とが相互に関わり合いながら、表面科学は発展してきた。

 固体表面研究の困難の第1に、観測にかかる量の問題があげられる。大量のバルク情報に埋もれた、わずか数原子層の表面情報を如何に精度良くかつ定量的抽出するかが大きな問題であった。固体表面の研究がこれまでに発展した背景には、固体表面研究に適した観測手法の永年にわたる開発によるところが大きい。近代化学工業の基礎である金属の触媒作用の本質を探るという興味が様々な電子・光計測法と結びつき、表面構造、電子状態、振動状態の情報が得られるようになった。また、半導体素子の高密度化の要請から微小デバイス開発が進むにつれ、nm からさらには原子サイズの物質情報が必要となったが、これも走査トンネル顕微鏡の発明を機に現実のものとなった。このような発展を遂げ、表面科学の研究成果はナノ電子デバイスの実現など、電子工業の分野をはじめ、材料工学、化学産業などに強い影響を与えてきた。ハードマテリアルを対象として培われた表面科学の知見は、膨大なものであり、固体表面とそこに吸着する原子・分子種の組み合わせにより、様々な低次元物質相が形成されること、また、固体表面での周期配列を反映して、その上に置かれた原子・分子は特徴ある状態を示すことなどが、マクロスコピックな観点のみならず、原子スケールのミクロスコピックな観点からも規定できるようになってきた。本領域研究では、上述の表面科学の手法を駆使して、分子凝集体表面で起こる様々な現象にメスをいれ、これまで正面きって議論されることの無かった新しい領域を切り開こうというものである。

 自然現象の多くは水や有機化合物などの反応に支配されている。これらの分子は、個々の分子間が比較的強い結合で結びつきながらも、その結合は無機固体にくらべソフトで多くの自由度を持っている。氷の結晶が多彩な形状を示すことからも明らかなように、このような分子の凝集体は固有の結合形態を持ちながらも、様々な外的因子により凝集形態がかわるなどの多様性を内蔵している。

 これまでの表面科学の知見によれば、ハードな固体表面をテンプレートに用いると有機分子や水などが配向して整列したり、また、テンプレートの形状によりその凝集形態が変化する。その形成メカニズムはまだ完全に解明されてはいないものの、分子の配向や凝集形態を制御する経験的な条件は把握されており、望む形態の分子凝集体表面を用意することが可能である。このように用意された分子凝集体表面では、人為的に分子軸の方向を揃えることができる(図1)。即ち、真空側に突き出ている分子軌道を意図的に操作できる訳で、この表面を標的として他の分子を作用させることにより、化学反応の空間的な自由度を制御することが可能となる。

図1 固体表面に展開した分子凝集体のモデル図(理想的):(左) 表面に形成されるバイレイヤー・アイス(右)1,4-シクロヘキサジエン/Si(100)(2x1)

 このように配列した物質系を対象として用いると、分子凝集体表面の反応モデルとすることができる。分子凝集体表面に特徴的な反応の本質を理解するには、まず第1に凝集体最外層を規定する必要が有るが、上述のように、固体表面のテンプレート上に配列した分子凝集体の数分子層を分子凝集体表面のモデルとすることにより、既存の表面科学的手法を適用することが可能となる。本研究領域では、このように原子レベルで規定された分子凝集体(ソフトマテリアル)上の化学反応を表面科学的手法(表面分光、局所プローブ、分子散乱等)で総合的に研究を推進することを目的とする。


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