研究成果最終報告

「分子凝集体表面の電子 状態」

(東大院総合)増田 茂・青木  優

1. 研究目的と概要

 本研究の目的は,準安定原子電子分光(MAES)などを用いて分子凝集体表面で展開されるさまざまな物理的・化学的 現象を電子状態の視点から明らかにすることである.He*(23S)などの準 安定原子は凝集体内部に進入しないので,MAESでは凝集体表面最外層の情報が選択的 に得られる.

 本研究では,結晶性氷表面におけるクロロホルムの溶解,N2やCOな どの物理吸着層における分子配向やホールダイナミクス,ジクロロエタン凝集層にお けるトランス-ゴーシュ 回転異性など分子凝集体表面というソフトな系に特有な状態や現象を見出すことがで きた.

2. 研究成果

2-1. 氷表面とクロロホルムの相互作用

 Pt(111)上で成長させた結晶性氷(_20分子層)とCHF3やCHCl3との相互作用 をMAES,UPS,HREELSにより調べた.

 図1に35 Kで CHCl3を単分子層,吸着させた表面のMAESを示す.吸着直 後のスペクトルでは,Cl原子で電子密度が高い分子軌道(nCl_CCl)は強く,H原子で電子密度が高い軌道(_CH)は非常に弱く観測され ている.これはCHCl3分子が結晶性氷の最外層に存在し,また3個のCl原 子を真空側に向けた配向をとることを示す.このときCHCl3の永久双極子 は表面垂直方向を向くが,氷表面も同方向に永久双極子をもつため, CHCl3の安定構造は双極子-双極子相互作用によって決まると考えられる.

 120 Kに加熱すると,CHCl3由来のバンドは弱くな り,氷由来のバンドは強くなる.これはCHCl3分子が氷表面から氷内部に 溶解したことを示す.溶解したCHCl3分子は表面数層内に留まって氷表面 ネットワークの再構築を引き起こす.155 Kまで加熱すると,CHCl3分子 と一部のH2O分子が脱離し,CHCl3由来のバンドは完全に消失 する.

結晶氷ではH2O分子は水素結合によるネットワーク を形成し,CHCl3はその狭い間隙を通り抜けることができない.したがっ て,上述の結果は温度上昇とともにネットワークの熱的揺らぎが増大し,これが CHCl3の溶解を可能にしたと解釈できる.実際,ネットワークの揺らぎが 小さい温度領域で脱離するCHF3は氷内部にほとんど拡散しない.

 

2-2. ジクロロエタン吸着分子のトランス-ゴーシュ回転異性

 Pt(111)上に吸着したCH2ClCH2Clと分子配向や立体配座 をMAES,HREELSにより調べた.

 図2にHREELSの吸着量依存性を示す(基板温度,35 K).損失ピークはトランス形とゴーシュ形の振動モー ドに帰属されC両者が共存することを示す.この共存状態はMAESでも確認された.ジ クロロエタンは結晶相でトランス形でのみ存在するので,ゴーシュ形の出現は金属上 の凝縮相に特有な現象として捉えることができる.

 ゴーシュ形は永久双極子をもつために,金属に誘起された鏡像双極子との相互 作用により安定化する.この安定化は単分子層以下の領域で特に有効に働く.図2か ら分るように,単分子層以上の領域でトランス形の割合が多くなるのは,この相互作 用によるゴーシュ形の安定化が減少することによる.

 また温度依存性や同位体効果の実験から,基板を70 Kまで加 熱すると,

(1) 単分 子層では,すべてのゴーシュ形は不可逆的にトランス形に転移する,

(2) 2分子 層では,一部のトランス形は不可逆的にゴーシュ形に変わる

という奇異な現象が見出された.上述の双極子-鏡像双極子相互作用に加えて,分子 -基板間の化学結合や電 荷-双極子相互作用も重 要な役割を担うものと考えられる.