研究成果最終報告

「分子凝集体表面におけ るエネルギー移動」

(東北大科研・筑波大)楠 勲 ・高岡 毅・佐々木正

1.研究目的と成果の概要

水分子凝集体表面における気体分子の溶解過程は、自然界にお ける様々な化学反応を理解する上で非常に重要である。領域代表者である川合らのグ ループによって水分子凝集体表面にアンモニア分子が分子状吸着すること、および分 子状吸着状態からの溶解過程においてエネルギー障壁が存在することが明らかにされ ている。そこで我々のグループにおいては、アンモニア分子の水分子凝集体への溶解 のメカニズムをより詳しく調べるために、(1)昇温による水分子凝集体表面における アンモニア分子の溶解過程を明らかにすること、(2)Xe原子衝突法を利用して溶解の 活性化エネルギーを決定すること、を研究目的として実験を行った。その結果、

・水分子10-20層の超薄膜ではアンモニアが非常に溶解しやすい 構造が形成されていること、

・加速したキセノン原子との衝突によってアンモニアが溶解す ること、

・アンモニアが氷薄膜を透過するために必要な活性化エネルギ ーは約0.37eVであること、

などを明らかにすることができた。

また、分子の衝突解離反応、非弾性散乱過程における表面凝縮 層の効果を明らかにすることを目的として、超音速分子線技術を活用した衝突散乱過 程の計測、走査プローブ顕微鏡による微視的表面物性の計測を行った。その結果、表 面凝縮層による仕事関数の減少により衝突解離反応が抑制される現象の詳細を明らか にした。さらに、衝突解離反応の重要な過程である非弾性散乱過程について、衝突解 離反応を理解、制御する上で重要な知見を得るとともに微視的計測の可能性を示し た。

 

2.研究成果

2−1 昇温による水分子凝集体表面におけるアンモニア分子の溶解過

図1aは、Pt(111)表面に水分子4層を吸着させたときのFTIRスペクトルである。 その表面にアンモニアを吸着した後に113Kまで加熱すると1260 cm-1に新たなピークが出現する(図1c)。このピークは、加熱したこと により水分子凝集体内を通過しその下の基板であるPt(111)表面に到達したアンモニ アに起因することがわかった。このピークの強度は、水分子の厚さ(層数)に依存す ることがわかった。その結果を図2に示した。図2からわかるように、水分子の膜厚 が増加するに連れてPt(111)表面に到達するアンモニアの量が減少していることがわ かる。

Pt(111)表面においては、水分子の膜厚が大きい場合には理想的な氷の結晶(Ih) が形成されるが、膜厚が小さい場合にはPt(111)面の構造に整合した√3構造が形成さ れることが報告されている。√3構造は本来の氷の結晶がひずんだ構造をしているた め、アンモニアのように水分子と水素結合を形成する分子は√3構造の水分子間の結 合を切って内部に溶解しやすいと考えられる。図2に示したアンモニア溶解の膜厚依 存性は、水分子の膜厚が増加するに連れてアンモニアの溶解しやすい√3構造の領域 が減少するために生じると考えられる。

昇温による水分子凝集体表面におけるアンモニア分子の溶解過程の研究において アンモニア溶解量の試料温度依存性などから溶解の活性化エネルギーを求めることを 試みたが、溶解の結果Pt(111)面に到達したアンモニアに起因する1260 cm-1にのピークの強度の正確な測定が困難でありエネルギーの決定には 至らなかった。そこで下記の方法で試みた。

図1

図2

 

2−2 Xe原子衝突法を利用オた溶解活性化エネルギーの決定

 Pt(111)表面に水分子を2層成長させた後にアンモニアをその表面に吸着した。 この表面に希ガス原子を照射すると、表面のアンモニアに衝突する。衝突により希ガ ス原子の運動エネルギーがアンモニアに移動し、アンモニアは水分子凝集体内部方向 に進む。このときにアンモニアが得たエネルギーが水分子凝集体内部への溶解の活性 化エネルギーよりも大きいと、内部に溶解することができると考えられる。図3は、 その概念図である。

希ガス原子としてはキセノン原子を用いた。キセノン原子の運動エネルギー制御 には、超音速分子線の技術を用いた。超音速分子線は、小さな穴(ノズル)の開いた 容器内部にガスを封入した状態で容器外部を真空にすることによってノズルから吹き 出てきた高速の分子線である。ヘリウムなどの軽い原子中の重いキセノン原子の割合 を変えることで数eVまで運動エネルギーを制御できる。

図4は、キセノン原子を照射することによりアンモニアが水分子凝集体内部に溶 解しPt(111)表面に到達する確率(断面積)をキセノン原子の運度エネルギーに対 してプロットした図である。図からキセノン運動エネルギーが約0.9eV以上でア ンモニアが溶解することがわかる。キセノン原子と水分子凝集体表面に吸着したアン モニア分子との衝突が弾性衝突であることを仮定すると、0.9eVのキセノン原子と衝突 したときにアンモニア分子は、約0.37eVの運動エネルギーを得る。以上の結果 から、アンモニア分子が水分子凝集体を透過しPt(111)表面に到達するときに必要な 活性化エネルギーは約0.37eVであるということがわかった。

図3

図4

 

2−3 Cs吸着表面におけるメタンの衝突解離反応の観測

 超音速分子線散乱実験から、Pt(111)表面にCsを吸着することによりメタンの衝 突解離反応が抑制することを明らかにした。これは仕事関数の低下による波動関数の 真空側への広がりを起源とする衝突解離ポテンシャル障壁の増大によると考えられる (図5、6参照)。実際、ヘリウム散乱計測から、仕事関数の低下に伴う電子の広が りを確認した。さらに、走査プローブ顕微鏡を用いた微視的計測から、吸着子の効果 が著しく遠くまで及んでいることを示した。これにより、吸着種が表面全体を覆うこ となく直接解離反応を完全に停止する機構を理解することができる。

図5

図6

 

2−4 分子の非弾性散乱過程の計測

 希ガスと水分子のPt(111)表面における非弾性散乱過程を比較し、分子の持つ内 部自由度、形状の非弾性散乱に与える影響を明らかにした。さらに、非接触原子間力 顕微鏡により非弾性散乱を決めるエネルギー散逸の微視的計測が可能なことを示し た。